臨時の決定
2人の兄弟の中で、臨海君のほうは加藤清正の軍勢の捕虜になってしまった。その結果、臨海君は加藤清正軍が転戦する度に引っ張りまわされ、さらには、和睦交渉の材料にまでされてしまった。これは臨海君にとって最大の屈辱だった。
一方、臨海君と違って光海君は、義兵を集めて戦功をあげた。貢献度という面では、兄の臨海君とは雲泥の差であった。
それを恥じたのか、臨海君は釈放されたあとも生活が荒れてしまって、さらに評判を悪くした。
結局、戦乱の中で後継者を早く決めなければならない立場に追い込まれた宣祖は、世子として光海君を指名した。
しかし、あくまでも臨時の決定であった。
朝鮮出兵が終わり、ひとときの安定を取り戻すと、朝鮮王朝でも再び後継者問題が重要になってきた。
やがて大きな変化があった。
宣祖が二番目の王妃として迎えた仁穆(インモク)王后が1606年に嫡子の永昌大君(ヨンチャンデグン)を産んだのだ。
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光海君(クァンヘグン)の末路!彼は王宮を追放された後にどうなった?