鄭道伝が太宗に殺された「王子の乱」

兄弟の争い

鄭道伝の提案により、朝鮮王朝では高麗時代の国教だった仏教を廃して、新たに儒教を取り入れた。すると鄭道伝は、「朝鮮王朝の建国において自分の功がもっとも大きい」と、公然と自慢するようになった。
こうした過ぎた自尊心が、結局は死につながった。太祖の後継者争いの中、鄭道伝は後に3代王・太宗(テジョン)となる芳遠によって殺害されてしまうのだ。
鄭道伝Fなぜ後継者争いに巻き込まれ、芳遠と対立するようになったのか。
太祖には、高麗の武将時代から2人の妻がいた。1人目は青年時代から彼を支えた神懿(シヌィ)王后。2人目は彼が出世してから妻にした神徳(シンドク)王后だ。
神懿王后との間に生まれた6人の息子は、芳遠をはじめとして太祖の新国家設立の大きな力となった。一方、神徳王后との間に生まれた2人の息子は、まだ幼い子供だった。しかし、1391年に神懿王后が亡くなると、神徳王后は太祖の寵愛を一身に浴びるようになり、彼女は自分が生んだ息子が王になることを望んだ。




この考えを、重臣である鄭道伝は強く支持した。彼が目指す政治は君臣たちが中心となる合理的な官僚支配政治であり、強大な私兵を持つ神懿王后の息子たちは脅威だったのだ。
1398年8月、周囲の勧めもあり太祖は、神徳王后から生まれた子を世子(セジャ/王の後継者)にすることに決めた。七男の芳番(バンボン)は生まれつき気性が荒かったため、太祖が指名したのはまだ10歳の八男・芳碩(バンソク)だった。
この決定を神懿王后から生まれた息子たちは、受け入れることはできなかった。特に、鄭夢周を筆頭にした開国反対勢力を除去することで大きな功をなした芳遠の怒りはとても大きかった。
(ページ3に続く)

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