1392年に建国された朝鮮王朝も、17世紀なかば以降の後期になると、各派閥による権力闘争が激しくなり、王権は常に脅かされるようになった。こうした権力闘争は「党争」と称されるが、朝鮮王朝の病巣となって常に政権を揺さぶった。そんな時代に朝鮮半島を統治した王の顔ぶれを順に見てみよう。
粛宗の統治能力は?
1674年に即位した19代王の粛宗(スクチョン)は、父が18代王・顕宗(ヒョンジョン)、その正妻の明聖(ミョンソン)王后が母である。両親は1男3女をもうけたが、その一人息子が粛宗だった。
しかも、顕宗には側室が産んだ子供もいなかった。つまり、粛宗は生まれたときから顕宗の後継者として宿命づけられていた。これほど争いもなく王位を楽に受け継いだ王は、朝鮮王朝でも他にいないと言えるほどだった。
それほど磐石な王位継承ではあったが、父の急死にともなって13歳で即位したために、当初は重臣たちの思惑に翻弄されるところも多かった。
結局、粛宗の在位期間に党争が非常に激しかったのは、粛宗があまりに若すぎる年齢で即位したことも原因の一つだった。
それでも、粛宗は成人後に政治的な業績を数多く達成して高い統治能力を示したが、宮中での女性問題で何かと火種をつくったのも事実だ。たとえば、欲深い張禧嬪(チャン・ヒビン)を側室から王妃に昇格させるために、人徳があった正妻の仁顕(イニョン)王后を廃妃にしたのもその一例だ。
そういう問題を数多く起こしたが、今となっては結果的に恰好のネタを時代劇に提供したことになる。
それゆえにドラマへの登場回数も多くなっていて、現在の韓国でもよく知られた王になっている。(ページ2に続く)
張禧嬪(チャン・ヒビン)を寵愛した粛宗(スクチョン)!朝鮮王朝全史19
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