朝鮮王朝時代、科挙の中にある“医科”に合格した人物が医師になった。その中でも優秀な人材が王の主治医になったが、それは大変な名誉と責任があった。一方、医女は医師とはなりたちが違った。
医女が生まれた理由
医女が生まれた背景には、朝鮮王朝が国教とする儒教の教えが関連していた。儒教では人に肌を見せるのは、大変な侮辱になったため、女性が男性医師の診察を拒否する場合が多かったのだ。
その結果、同性の医師の必要性が生まれ、3代王・太宗(テジョン)の時代に医女を選抜するようになった。しかし、良家に生まれた女性が、他人の肌を見るような仕事に就きたがる訳がなかった。そこで、医女は身分の低い奴婢の中から選出することになった。
そのため、医女は必要以上に低く見られ、10代王・燕山君(ヨンサングン)の時代には、宴席で酌を強要されることもあった。
こうした風習は、11代王・中宗(チュンジョン)の時代に禁止された。
一方、チャングム(長今)〔生没年不詳〕は中宗の時代に活躍した医女である。彼女は、朝鮮王朝の歴史を公的に記録した歴史書「朝鮮王朝実録」にも登場していることから実在が確認されている。(ページ2に続く)