興宣大院君の誕生
哲宗の死期を感じた安東・金氏は、次の王も自分たちが意のままにできる人物にしようと画策し、有能だと思われる王族を強引な手法で粛清していった。
しかし、王族の中には現状を打破しようとする者がいた。その代表格が李昰応(イ・ハウン)であった。彼は、安東・金氏が有能な王族を殺していくのを見ると、いち早く無能を装った。たとえば、庶民を連れて遊び歩き、金がなくなると安東・金氏のもとへ行き物乞いをしたのだ。
あまりにだらしがないので、李昰応は「餓えた捨て犬」と馬鹿にされた。しかし、それは計算された「仮の姿」だった。その結果、李昰応は安東・金氏の魔の手から逃れることができた。そして、哲宗が体調を崩すと、王族の長老女性と結託して、息子の命福(ミョンボク)を王に推挙した。
1863年に哲宗が亡くなると、安東・金氏は命福(ミョンボク)を26代王の高宗(コジョン)として即位させた。この人選は、安東・金氏が自分たちの勢力を維持するのに一番都合がよかったのである。
その結果、李昰応は興宣大院君(フンソンデウォングン)として、摂政の地位についた。大院君とは、王位が父から子へ譲られなかった場合に用いられる称号で、国王の父を意味していた。
長い朝鮮王朝の治世では数人の大院君が存在するが、現在「大院君」と言ったら李昰応のことを指す。それほど、彼の残した印象は強烈だった。
文=慎 虎俊(シン ホジュン)
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