王宮の正門の向きをめぐる論争
高麗王朝では仏教が国教になっていたが、鄭道伝は「新しい王朝では、儒教こそが国教になる」と考えていた。そういう目的に向けて鄭道伝は邁進(まいしん)した。
象徴的な出来事がある。高麗王朝の都だった開京(ケギョン)から朝鮮王朝は漢陽(ハニャン/現在のソウル)に遷都をしたが、1395年から王宮の建設を始めるにあたり、正門の向きをどうするかによって議論が噴出した。
「正門を東側に造ったほうがいい」と主張したのは、有名な僧侶だった無学大師(ムハクテサ)であった。
「南側には火を起こす災いがあるので、南側を避けて東側に正門を作るのが正しい」
それが無学大師の主張だった。
鄭道伝は真っ向から反対した。
「南に正門を造って国王が政務を司(つかさど)ることによって王朝は繁栄する」
このように鄭道伝は主張した。
有名な2人の論争が激しさを増す中で、初代王の李成桂は熟慮の末、新しい王朝の正門を南向きに作ることにした。
これによってはっきりと、仏教よりも儒教が国の教えになるということが確定したとも言える。(ページ3に続く)
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