最後まで最高実力者だった
李芳遠は、故郷の咸興(ハムン)で引退生活を送っていた父の李成桂に何人も使者を送った。しかし、李芳遠に対する怒りの収まらない李成桂は、その使者をことごとく殺してしまった。この出来事によって、行ったきり戻ってこない人のことを「咸興差使」と呼ぶようになった。
1402年、意地を通していた李成桂だが、信頼する無学大師の説得を受けて、李芳遠と和解した。そして、1408年に波瀾万丈の人生を終えた。
名実ともに李芳遠は3代王・太宗(テジョン)となった。彼は、王族の私的な兵の所有を禁止した。これは、王位をめぐって王族間で争いが起きるのを防ぐためだった。
李芳遠は王位を無理やり奪ったイメージが強いが、李成桂が建国した朝鮮王朝の基盤を固めたと高く評価されている。
また、李芳遠は1418年までの間に4回も譲位騒動(後継者に王位を譲ること)を起こしている。
これは余力があるうちに王位を退いて、上王として政治を裏で操ろうと考えたからだ。1418年、李芳遠は三男の忠寧(チュンニョン)に王位を譲り、忠寧が4代王・世宗(セジョン)として即位した。
このように李芳遠は世宗に王位を譲りながらも、王権の大部分を掌握していた。実質的には李芳遠が王位に就いているのと変わらなかった。このように、最後まで最高実力者だった彼は、1422年に55歳で世を去った。
文=「歴史カン・ヒボン」編集部
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