『雲が描いた月明り』で主人公になっていたイ・ヨンは歴史上では孝明(ヒョミョン)世子という名でよく知られている。聡明で名君になる素質が十分だったのに、彼の才能が日の目を見ることはなかった。なぜ、そうだったのか。
生まれながらの「未来の国王」
孝明世子は23代王・純祖(スンジョ)の長男として1809年に生まれた。
母親は純元(スヌォン)王后である。『雲が描いた月明り』では孝明世子ことイ・ヨンの実母は、彼が幼いときに亡くなった設定になっていたが、現実の世界では長生きして女帝のようにふるまった女性であった。
彼女がそこまで権勢をふるうことができたのは、夫の純祖が気弱い性格だったからである。強気にものごとを進められる純元王后は、消極的な純祖を押しのけて、自分の実家(安東〔アンドン〕・金氏の一族)に権力をもたらした。
そんな政治状況の中で孝明世子は育っていった。
彼が王の正式な後継者である世子に冊封されたのは3歳のときだ。こんなに早く世子となったのは、あまりに賢かったからだ。
純祖の長男ということもあり、孝明世子は生まれながらにして「未来の国王」を約束されていた。
しかも、すばらしい国王になる可能性が高かった。
孝明世子は8歳のときに最高学府の成均館(ソンギュングァン)に入学し、10歳のときには早くも成人男子として認められた。すばらしい成長ぶりである。
こうなると、王家の通例として婚姻が待っている。
孝明世子は10歳にして嫁をもらった。それは、高官の趙萬永(チョ・マニョン)の娘であった。
趙萬永の一族は豊壌(プンヤン)・趙氏という。この一族の娘が世子の妻となり、豊壌・趙氏は一気に勢力を拡大していった。
利発に成長していった孝明世子は、18歳になった1827年から純祖のもとで代理聴政(テリチョンジョン)をするようになった。
この代理聴政とは、いわゆる摂政のことであり、王の代理で政治を仕切ることを意味していた。
表向きの理由は純祖の病状悪化であったが、実際には、純祖が息子の才能を高く買っていて、王家が政治の主導権を奪い返そうとしたのである。
実際、政治の表舞台に出てきた若き孝明世子は、巧みな統治能力を見せた。
それは、まずは人事面で発揮された。孝明世子は安東・金氏の一族が占めていた要職に新しい人材を積極的に登用していった。
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イ・ヨンこと孝明世子(ヒョミョンセジャ)はなぜ早死にしたのか
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〔解説〕世子嬪(セジャビン)という人生/イ・ヨン(孝明世子)の世子嬪は?