幼い王が感じた恐怖
首陽は権擥が持ちだしたクーデターの計画に耳を傾けていく。その計画を進めていく段階で権擥の友である韓明澮(ハン・ミョンフェ)をも仲間に引き入れた。王位に執着心を抱いていた首陽は、彼らに見返りを約束して関係を深めていった。
特に、韓明澮はしばらくすると皇甫仁などのいずれ殺すべき人物をまとめた「殺生簿」を作り、武人たちを配下においてクーデターの時に備えていた。
1453年、穏やかな秋の日々を送っていた端宗の周りに不穏な空気が漂い始めた。そこにとつぜん首陽と武装した60人ほどの兵たちが宮中に現れた。
「首陽でございます。この度は突然の無礼をお許しください。どうにも謀反を企てる者がいると聞き、御身を守るため参ったのでございます」
端宗が驚いていると、首陽は「勝手な判断でしたが、すでに金宗瑞を処罰しました」と言い放った。
首陽の目に宿る狂気を恐れた端宗は首陽の言い分を聞き入れてしまう。こうして「殺生簿」に名を連ねた者たちは軒並み殺されてしまい、端宗を守る者はいなくなった。この事件が「癸酉靖難(ケユジョンナン)」であり、これによって首陽は朝廷の権力を掌中に収めた。
後ろ盾をなくした幼い端宗は、叔父の恐怖に怯えながら暮らした。そして、首陽の勢力が強まる宮中で、端宗はだんだん孤立していった。
結局、端宗は身の危険を感じ首陽に王位を譲った。1455年、端宗は王位を退き首陽が7代王の世祖(セジョ)となった。
しかし、端宗の受難はこれで終わりではなかった。(ページ3に続く)
光宗(クァンジョン)はどんな王だったのか/三国高麗国王列伝8