世祖が敬恵王女を特別扱い
1456年、端宗の復位を狙って世祖を暗殺しようとするクーデター計画が発覚した。いわゆる、「死六臣」事件である。それ以後も、世祖に反抗する勢力の存在が次々に明らかになった。
こうした事態を受けて、世祖は反対派に対して強硬手段に出た。その渦中で鄭悰に対する処罰はさらに厳しくなり、彼は全羅道(チョルラド)の光州(クァンジュ)に流されることになった。
そればかりか、鄭悰は配流地の家の周囲に囲いを作られて、外部との接触を一切禁じられた。かなりの重罪人扱いである。
このときも、敬恵王女は夫に付いていきたいと役所に願い出た。通常なら許可されないのだが、それを聞いた世祖は敬恵王女の申請を認めた。しかも、光州へ行くための輿(こし)まで用意した。ここでも世祖は敬恵王女を特別扱いした。彼女の弟から王位を奪った後ろめたさのためであろうか。
1457年、世祖の実弟である錦成大君(クムソンデグン)が世祖に反旗をひるがえして挙兵する動きを見せた。(ページ3に続く)