統治者としての2人
結局、仁祖の戦略が功を奏して、仁穆王后の許可を受け、クーデターは歴史的に「反正」と呼ばれるようになった。
さらに、即位後の仁祖は光海君の悪評を徹底的にふりまいて、自分の正当性を広く喧伝した。
それはもう、涙ぐましい努力だった。
しかし、結局、仁祖は失政続きで政治を混乱させた。統治者としては、光海君の足元にも及ばなかったのである。
もう一度、問いかけてみよう。
「光海君を廃位に追い込んだ仁祖のクーデターに大義名分はあるのか」
歴史的には、大きな疑問が投げかけられている。
文=康 熙奉(カン ヒボン)