貞純王后が招いた悲劇
正祖の後を継いで王となったのは、彼の息子の純祖(スンジョ)だ。しかし、当時10歳だったため、政治を行なうことができないので、王室の最長老である貞純王后が代理で政治を行なった。
彼女は、正祖が重用していた高官たちを罷免(ひめん)し、政治的に進めていた改革をつぶしていった。さらに貞純王后はカトリック教の弾圧を行なっている。その理由は「儒教の価値観を否定していること」と「自分に敵対する勢力にカトリック教徒が多いこと」だった。
貞純王后は、5つの家が飢餓に備えて食糧事情を把握することを目的として作られた五家作統法を悪用した。それにより、5つの世帯の中からもしカトリック教徒が出たら、連帯責任として5つの世帯すべてが罰せられた。その際に密告が相次いで、数万人の人が処刑された。その中にはカトリック教徒でないのに処刑された人も多くいた。彼女が行なっていた政治は、恐怖政治と呼ばざるを得ないものだった。
このようなことは絶対にあってはならないが、それが許されてしまったのは朝鮮王朝の悲劇である。本来なら貞純王后は王族の最長老として正当性を守らなければならない立場にあったのに、彼女は罪もない多くの人の命を奪ったのだ。
そんな貞純王后も1805年に60歳で世を去った。横暴を働いたが、彼女からしてみれば、自分の思い通りに政治を動かすことができたのだから、まさに「天寿を全うした」と言えるかもしれない。しかし、庶民から見れば、「最悪の王妃」だった。
文=康 大地(コウ ダイチ)
提供=「ロコレ」