朝鮮王朝人物列伝/第22回
朝鮮王朝14代王・宣祖(ソンジョ)。彼が統治する時代に大きな戦いがあったが、宣祖はその戦いの最中に王として人々から怨まれる行動を取る。いったい彼は何をしたのだろうか。
庶子から王に
13代王・明宗(ミョンジョン)には息子が1人いたが、1563年に12歳という若さで世を去ってしまい、正室が産んだ息子がいなくなった。そのため、側室が産んだ息子から後継者を選ぶ必要があった。
そして選ばれたのが河城君(ハソングン)だった。彼は、11代王・中宗(チュンジョン)の九男である徳興君(トグングン)の三男だった。この河城君が、1567年に15歳で14代王・宣祖として即位した。
まだ未成年だった彼に代わって、明宗の正妻である仁順(インスン)王后が代理で政治を行なった。宣祖が自分で政治を行なうようになったのは16歳からだが、彼は自分が庶子出身だということにコンプレックスを抱いていた。
宣祖は「このままでは正統性を疑われる」と思い、儒教的な価値観に基づく王道政治にこだわった結果、彼は儒教の理念を重んじる士林(サリム)派の官僚や学者を重用した。しかし、理屈っぽい士林派の官僚たちには議論で相手を論破する癖があった。それが原因で東人(トンイン)と西人(ソイン)という2つの派閥にわかれてしまい、朝鮮王朝は政治的に混乱した。(ページ2に続く)