権力を握った文定王后
日に日に体調を悪化させていく仁宗。その後も病状が回復することはなかった。一方の文定王后は、王が大変な状態だというのに、見舞いもせずに外出騒ぎを起こして、臣下たちを混乱させた。
1545年7月、仁宗が世を去った。彼の死に関してある1つの可能性がある。それは、仁宗が文定王后に毒殺されたのではないかということだ。
空席となった王の座だが、彼には息子がいなかったため、文定王后の息子である慶源大君が13代王・明宗(ミョンジョン)として即位した。ついに、自分の息子を王にすることができた彼女は、仁宗の葬儀を王のものとは思えないくらい簡単にすませてしまう。
新たな王となった明宗だが、彼はまだ11歳と幼かったため、母親である文定王后が摂政を行ない、幼い王の代わりに政治を仕切った。これが大変な悪政で、餓死した民も多かった。絶対になってはいけない人が「女帝」になってしまったのである。
文=康 大地【コウ ダイチ】
提供=「ロコレ」