朝鮮王朝が実施した流刑は、罪の軽重によって流配地を決定するというものだった。つまり、重い罪を負うほど漢陽(ハニャン/現在のソウル)から遠い場所に流されたのである。特に、多かったのが朝鮮半島西南部の諸島や済州島(チェジュド)。とりわけ、朝鮮王朝時代に南海の孤島とされた済州島は、最も多くの政治犯が流刑となった島だった。
支配階級が恐れた流罪
済州島への流罪は終身刑を意味していた。
生きて再び都に戻ることは皆無に近かったのである。
それゆえに、権力闘争に明け暮れた支配階級の人々は、済州島への流罪をこのうえなく恐れた。
その中の1人が、朝鮮王朝の15代王・光海君(クァンヘグン)だった。
14代王・宣祖(ソンジョ)の側室から生まれた彼は、1608年に即位した。当初は名君という評判もあった。豊臣軍との戦いによって荒廃した国土の復興に尽力し、歴史的に貴重な史籍の編纂にも貢献をした。
しかし、人間は変わる。
特に、長く王位につく者は……。(ページ2に続く)
光海君(クァンヘグン)が仁穆(インモク)王后に復讐された日(前編)
光海君(クァンヘグン)を追放した仁祖(インジョ)に大義名分はあるのか?