光海君は14代王・宣祖(ソンジョ)の二男として1575年に生まれました。1592年に朝鮮王朝が豊臣軍に攻められたとき、光海君は武勲をあげています。一方、兄の臨海君(イメグン)は加藤清正軍の捕虜になるという屈辱を受けました。同じ兄弟でも弟は褒められ、兄は非難されたのです。
成果をあげた光海君
臨海君は性格が粗暴だったと言われています。こうなると、王の後継者問題で臨海君より光海君のほうが有利になりました。結局、力量的に王にふさわしいという評価を受けて、光海君が世子(セジャ/次代の王)に指名されました。
しかし、臨海君を支持する一派が強烈な巻き返しに出ました。さらに、宣祖の二番目の正室だった仁穆(インモク)王后が1606年に永昌大君(ヨンチャンデグン)を産み、後継者争いが激しくなりました。
実は、臨海海も光海君も宣祖の側室から生まれていて、いわば庶子だったのです。一方の永昌大君は宣祖にとっては待望の嫡男であり、本流の息子のほうを支持する人たちが多かったのも事実です。
そんな中、宣祖が1608年に世を去ります。このとき、宣祖は「光海君に王位を譲る」という遺言を残して息絶えたのですが、永昌大君を支持する一派がその遺言を握りつぶしてしまいました。
こうなると、後継者争いは混沌としてきますが、最終的には、まだ2歳で満足に言葉を話せない永昌大君が王位を継ぐのは無理でした。そのことを仁穆王后も認めざるをえなかったのです。
光海君は宣祖の後を継いで15代王になりました。それでも彼の王位は安泰とはいえず、光海君は兄弟たちと激しい権力闘争を繰り広げます。とはいえ、王座についているほうが有利であることは間違いなく、光海君の一派は臨海君を1609年に粛清して、永昌大君も1614年に殺害しました。
さらに、仁穆王后を幽閉して大妃(王の母)の身分を剥奪しました。こうした「骨肉の争い」が、後に大きな怨みを買う結果になってしまいます。
ただ、光海君の政治的能力はかなり高く、彼は豊臣軍との戦いで荒廃した国土の復興に尽くし、王宮を再建しました。国防を強化して異民族との外交でも成果をあげました。しかし、怨みを持つ人たちが決起してクーデターを起こします。
1623年3月12日の明け方、1000人あまりのクーデター軍が当時の王宮だった昌徳宮(チャンドックン)を急襲しました。油断した光海君は逃亡しましたが、すぐに捕まって流罪となりました。先王であったという最低限の名誉を重んじて、クーデター軍も光海君の命までは奪いませんでした。
最終的には、光海君は都から一番遠い済州島(チェジュド)に流されました。世を去ったのは1641年のことで、享年66歳でした。王宮を追放されてから18年の歳月が過ぎています。失意の中でも意外と長生きしたわけです。
文=康 熙奉(カン ヒボン)