ファン・ジニ(黄真伊)は、両班(ヤンバン/朝鮮王朝時代の貴族階級)の庶子として、16世紀前半に松都(ソンド/現在の開城〔ケソン〕)で生まれた(正確な生年は不明)。身分制度が厳格だった朝鮮王朝だけに、庶子はきびしく差別された。それでも、ファン・ジニはたぐいまれな才能を持っていて、小さい頃から学問に習熟して詩を書いた。
罪作りな美女
朝鮮王朝時代は、女性が文芸では生きられない時代だった。ファン・ジニは妓生(キセン)となり、その美貌が評判になった。
そんな美女を男性が放っておくわけがない。たとえば、生き仏といわれるくらい修行に明け暮れた禅師は、ファン・ジニの魅力に負けて破戒僧になってしまう。いわば、罪作りな美女だったのである。
また、碧渓守(ピョク・ケス)という知識人は、ファン・ジニが風流な人物としか会わないと聞き、こう言った。
「それほどの評判ならば、私が落としてみせる」
碧渓守は意気込んだ。
そして、月夜にファン・ジニの家のそばで意味ありげに琴を弾いて、彼女を誘い出そうとした。
そうやって黄真伊が現れたら、馬にまたがり立ち去るつもりだった。つまり、誘い出して無視する作戦だったのだ。
確かに、ファン・ジニは月夜に現れた。
そして、詩を朗々とうたいあげた。
そのあまりのすばらしさに碧渓守は魅せられた。
彼は、ボーッとなってしまい、あえなく落馬してしまった。
なんとも冴えない作戦失敗だった。
ファン・ジニの前では、どんな男たちも歯が立たなかった。
1人だけ違ったのが、儒学者の徐敬徳(ソ・ギョンドク)だった。
ファン・ジニのほうが彼の才能に惚れ込み、彼女は色香で誘惑しようとした。
しかし、徐敬徳は落ちなかった。
たまらず、ファン・ジニは彼に弟子入りし、師匠として崇めた。僧侶や知識人を骨抜きにしたファン・ジニが、徐敬徳だけは信奉するようになったのだ。
このよう、徐敬徳だけには頭が上がらなかったファン・ジニだが、彼女は詩の才能をいかんなく発揮して、女性には生きづらい社会で華麗に生きた。
しかし、どこか謎めいた部分も多かった。
彼女が生を終えるとき、「私が死んだら棺に入れないで、鳥のエサにでもしてほしい」と言ったという。
おそらく、40歳前後で息を引き取ったと推定されるファン・ジニだが、正確な没年はわかっていない。
これほど有名な女性なのに、生年も没年も不明なままだ。朝鮮王朝時代というのは、女性が名を残すのに困難な時代だった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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