張禧嬪(チャン・ヒビン)に死罪を命じた粛宗(スクチョン)

 

1689年、粛宗(スクチョン)は仁顕(イニョン)王后を王宮から追放しました。「仁顕王后が質素な白いチョゴリを着て、わずかなお供を連れて実家に戻る場面」……それは様々な韓国時代劇で描かれてきました。ドラマの中で仁顕王后は「自分は罪人ですから、実家に戻っても粗末な離れで暮らします」と本当に健気なことを言います。視聴者が同情するのも当然です。




国王の心変わり

離縁された仁顕王后に代わって王妃の座についたのが張禧嬪(チャン・ヒビン)でした。彼女は側室から王妃に昇格したのです。
張禧嬪は、贅沢三昧の生活に明け暮れます。息子も世子として王の後継者に指名されました。ここまでは張禧嬪の思いどおりで、これ以上はない立場になりました。
しかし、誤算がありました。それは、粛宗の浮気性です。張禧嬪が王妃になった途端に、粛宗は他の女性に目が行ってしまったのです。
彼が惚れた女性こそが、あのトンイでした。
トンイというのは淑嬪(スクビン)・崔(チェ)氏のことです。ドラマ『トンイ』の主人公になっています。ただし、このトンイという名はドラマの創作のようです。ここでは正式に淑嬪・崔氏と呼びましょう。
心変わりした粛宗は張禧嬪を冷遇して淑嬪・崔氏を寵愛するようになりました。この淑嬪・崔氏は仁顕王后を慕っていたので、粛宗に向かって「なんとか仁顕王后を戻してもらえませんか。あの方は張禧嬪の策略で陥れられたんです」と訴えます。




その願いが通じて、粛宗は張禧嬪を再び側室に降格させて、仁顕王后を王妃に復位させることを決意します。
このときも高官がこぞって反対します。すでに、粛宗と張禧嬪との間に生まれた息子が世子になっていたからです。
次の王になる世子の母親を王妃の座から引きずりおろすのは道義的にもおかしい、というのが高官たちの主張でした。
(ページ2に続く)

粛宗(スクチョン)はどんな国王だったのか

粛宗(スクチョン)!王妃問題でトラブルが多かった国王

張禧嬪(チャン・ヒビン)が粛宗(スクチョン)の心を奪った日々!

張禧嬪(チャン・ヒビン)がついに王妃に成り上がった日!

張禧嬪(チャン・ヒビン)が粛宗(スクチョン)の息子を産んで起こった騒動とは?

固定ページ:

1

2 3

関連記事

ピックアップ記事

必読!「悪女たちの朝鮮王朝」

本サイトには、「悪女」というジャンルの中に「悪女たちの朝鮮王朝」というコーナーがあります。ここでは、朝鮮王朝の歴史の中で政治的に暗躍した女性たちを取り上げています。
朝鮮王朝は儒教を国教にしていた関係で、社会的に男尊女卑の風潮が強かったのです。身分的には苦しい境遇に置かれた女性たちですが、その中から、自らの才覚で成り上がっていった人もいます。彼女たちは、肩書社会に生きる男性を尻目に奔放に生きていきましたが、根っからの悪女もいれば、悪女に仕向けられた女性もいました。
「悪女たちの朝鮮王朝」のコーナーでは、そんな彼女たちの物語を展開しています。

もっと韓国時代劇が面白くなる!

韓国時代劇によく登場する人物といえば、朝鮮王朝の国王であった中宗、光海君、仁祖、粛宗、英祖、正祖を中心にして、王妃、側室、王子、王女、女官などです。本サイトでは、ドラマに登場する人物をよく取り上げています。

ページ上部へ戻る