世宗(セジョン)が1397年に生まれたとき、父親の太宗(テジョン)は波乱の中にいた。彼は世子(セジャ)の指名からはずれてしまったが、異母弟の芳碩(パンソク)を排除して自分が正当な王位継承者であることを力で見せつけようとした。
三男の能力を評価した父
1398年に太宗は「王子の乱」を起こして芳碩を殺害。そのうえで1400年に3代王として即位した。
このときに世宗は3歳だったが、このときから「王の息子」として育てられた。幼い頃からとても利発な子供で、かたときも書籍を離さなかった。
病気になっても書籍を読むことをやめなかった世宗。息子のからだを心配した太宗は書籍を屏風の後ろに隠してしまったのだが、世宗はフラフラするからだで書籍を探し当てて、病床でも読書をやめなかった。
まさに「本の虫」である。
これだけ読書を続けたおかげで、世宗は学者も顔負けするほど博識になった。ただし、彼は自分がまさか王になるとは想像すらしていなかった。
兄弟は4男4女だったが、彼は上に兄が2人もいて、気軽な3男坊だったのである。
しかし、父親の太宗は頭脳明晰な世宗に後を継がせようと思い始めていた。太宗にとっては長男も二男も王にふさわしいとはとても思えなかった。
そこで彼は長嫡子が王位を継ぐという原則を変えて、三男の世宗に白羽の矢を立てた。
(ページ2に続く)
芳遠(バンウォン)が3代王の太宗(テジョン)となる!朝鮮王朝全史2