朝鮮王朝人物列伝/第12回
卓越した手腕で政変を成功に導いた16代王・仁祖(インジョ)。しかし、即位してからの彼を待つのは苦難の連続だった……。「朝鮮王朝最大の屈辱」を味わったと言われる仁祖の生涯に迫る。
光海君派の横暴
朝鮮王朝14代王・宣祖(ソンジョ)は、側室から13人の息子を儲けるが、最初の正室から息子が誕生することはなかった。「正室の息子を世子(王の後継者)にしたい」という明確な思いがあった宣祖は、ギリギリまで後継者の指名を遅らせていた。しかし、状況は1592年になると状況は一変する。
豊臣秀吉による朝鮮出兵が始まったのだ。混迷する戦時中に世子がいないことは問題だった。こうして、宣祖は世子を側室の息子から選ぶことになった。
候補となったのは、長男の臨海君(イムヘグン)と二男の光海君(クァンヘグン)だ。宣祖は様々な思惑の末に光海君を世子に指名する。(詳しくは第12回 15代王・光海君編より)
1598年、豊臣秀吉の死によって朝鮮出兵は幕を下ろした。その2年後、宣祖の最初の正室が亡くなった。宣祖は新たな正室として仁穆王后を娶り、彼女は1606年に念願の息子・永昌(ヨンチャン)大君を産んだのである。これが、後の大きな火種となった。
1608年、宣祖が亡くなり世子だった光海君が15代王として即位した。しかし、宮中では光海君の即位を認めない臣下が多く、彼らは臨海君派や永昌大君派として露骨に機会をうかがうようになった。
当然、光海君派の人間からすれば面白くない事態だ。彼らは光海君の王位を盤石にするために臨海君を処罰。さらに、大妃である仁穆王后を幽閉した後、まだ幼い永昌大君まで手にかけてしまう。
その魔の手は、臨海君と永昌大君に留まらなかった。新たな標的となったのは、光海君の異母弟にあたる綾昌君(ヌンチャングン)。彼は王宮内で「もし彼が王だったら」と言われるほど優秀だったが、光海君派に謀叛の罪を着せられて殺害されてしまう。
親族であろうとも容赦なく処罰する光海君派の横暴は、多くの敵を作っていた。(ページ2に続く)
仁祖(インジョ)はなぜ昭顕(ソヒョン)世子の一家を滅ぼしたのか