英祖(ヨンジョ)と正祖(チョンジョ)!激動の朝鮮王朝史8

 

1674年に即位した19代王・粛宗(スクチョン)は、商業の活性化をはかり庶民の生活向上に成果を発揮した。しかし、女性問題で度々トラブルを起こしている。




英祖の息子

粛宗は側室の張禧嬪(チャン・ヒビン)を寵愛するあまり、正室の仁顕(イニョン)王后を廃妃にしたり、あるいは、気まぐれのように仁顕王后を復位させたりしている。
挙げ句には、ドラマ『トンイ』の主人公になった淑嬪(スクビン)・崔(チェ)氏の告発を受けて張禧嬪を1701年に死罪にしている。
粛宗が在位中には、王宮内は混乱するばかりだった。
彼の後を継いだ王が、張禧嬪が産んだ20代王・景宗(キョンジョン)だが、即位から4年後の1724年に急死してしまう。子供がいなくて跡取りもいないので、粛宗と淑嬪・崔氏との間に生まれた息子が21代王・英祖(ヨンジョ)として即位した。
英祖の最初の妻は貞聖(チョンソン)王后だが、2人には子供がいなかった。代わりに、側室の映嬪(ヨンビン)・李(イ)氏が産んだ英祖の息子・荘献(チャンホン)が世子になった。
荘献はとても頭が良く、10歳くらいで政治の表舞台に立って立派な意見が言えるほど天才的な少年だった。




しかし、当時の政権を握っていた老論(ノロン)派の高官たちを批判したことによって、老論派から恨みを買ってしまう。さらに、荘献は素行が悪く、自分の側室を殺したりしたこともある。
いろいろと本人に問題が多かったことも事実だが、やはり老論派の企みに陥れられた面もある。つまり、英祖は老論派の高官たちから荘献の悪いところばかりを吹聴されたわけだ。
(ページ2に続く)

英祖(ヨンジョ)は偏屈な王だった

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