第10回 武力で王の座を勝ち取った王
朝鮮王朝3代王・太宗(テジョン)は、初代王・太祖(テジョ)と神懿(シヌィ)王后の間に五男として生まれた。彼は、父親によって王の後継者に指名されたわけではないので、本来なら王になることはできなかったが、二度に渡る兄弟同士の争いで勝利を収めて1400年に王の座に就いている。太宗は、いったいどのような王だったのか。
激怒した芳遠
朝鮮王朝の前の高麗王朝では、一夫多妻制が認められていたため、太祖には妻が2人いた。1人目の妻である神懿王后から芳雨(バンウ)、芳果(バングァ)、芳穀(バンウィ)、芳幹(バンガン)、芳遠(バンウォン)、芳衍(バンヨン)の6人、2人目の神徳(シンドク)王后からは芳蕃(バンボン)と芳碩(バンソク)の2人の子供が生まれている。
五男の芳遠(バンウォン)は、朝鮮王朝建国の際に大きな活躍をしたことから、8人の兄弟の中で、王の後継者に選ばれる可能性が高く、他の兄弟たちも、芳遠が選ばれると思っていた。しかし、太祖が後継者に指名したのは八男の芳碩だった。その理由は、2人目の妻である神徳王后を寵愛していたからだ。
その決定に納得のいかない芳遠は、父親の太祖に「後継者の決定を考え直してください」と言ったが、受け入れられなかった。
激怒した芳遠は、1398年に「第一次王子の乱」を起こして異母弟の芳蕃と芳碩を殺害したが、朝鮮王朝建国の際に活躍した功績が大きかったため、処罰を受けなかった。
当時、権力を握っていた芳遠はすぐに王にはならずに、兄である二男の芳果に2代王・定宗(チョンジョン)として即位させた。彼には息子がいなかったため、次に王になるのは芳遠だと思われていたが、四男の芳幹も王の座を狙っていた。
その2人が戦った結果、勝利を収めたのは芳遠だった。いくら、芳幹が王の座に執着していても、兄弟の中で一番力のある芳遠には勝てなかった。結果、芳幹は官職を剥奪されて、流罪に処された。これが、1400年に起きた「第二次王子の乱」である。二度に渡る王子の乱で勝利した芳遠は、同年に3代王・太宗として即位した。(ページ2に続く)