1724年、21代王・英祖(ヨンジョ)が即位した。英祖の最初の妻は貞聖(チョンソン)王后だが、2人には子供がいなかった。代わりに、側室の映嬪(ヨンビン)・李(イ)氏が産んだ英祖の息子がイ・ソンこと思悼世子(サドセジャ)だった。
英祖の怒り
思悼世子はとても頭が良く、10歳くらいで政治の表舞台に立って立派な意見が言えるほど天才的な少年だった。
しかし、当時の政権を握っていた老論(ノロン)派の高官たちを批判したことによって、老論派から恨みを買ってしまう。さらに、思悼世子は素行が悪く、自分の側室を殺したりしたこともあった。
いろいろと本人に問題が多かったことも事実だが、やはり老論派の企みに陥れられた面が強い。つまり、英祖は老論派の高官たちから思悼世子の悪いところばかりを吹聴されたのだ。
英祖の堪忍袋の緒が切れてしまった。英祖は「世子が王位を継いだら朝鮮王朝は大変なことになる」と覚悟を決め、思悼世子に対して「自害せよ」という命令を出した。
しかし、思悼世子は自決しなかった。英祖の怒りが収まらず、「自害しろと言ってもしないのなら、米びつを持ってまいれ」と臣下に命じ、王宮の中庭に運ばれてきた米びつに思悼世子を閉じ込めた。
なんともむごいことである。
食べ物が与えられなかった思悼世子。8日目に米びつを開けてみたら餓死していた。いつ死んだのかわからない。
息子が死んだあとになって英祖はとても後悔した。しかし、あまりに遅すぎた。
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「英祖(ヨンジョ)は粛宗の子供ではない」という告発がなぜ起こった?