張禧嬪の側室への降格
それまでの朝鮮王朝の歴史の中で廃妃になった王妃は何人もいたが、再び王宮に戻ってこられたのは仁顕王后が初めてである。
まさに人徳の賜物だが、その一方で、人徳のない張禧嬪は王妃の座を明け渡さなければならなくなった。
粛宗は次のような覚書を出した。
「国運が安泰を取り戻し、中殿(チュンジョン/王妃のこと)が復位した。民の上に君主が二人いないのは、古今を通じての道理だ。張氏(チャンシ/張禧嬪のこと)は王妃から変わり、再び『禧嬪』というかつての号に戻る。世子(セジャ)はそのままにして廃しないようにせよ」
粛宗が語った世子は1688年に張禧嬪が産んだ王子のことで、粛宗の正式な後継者になっていた。
つまり、粛宗は張禧嬪を側室に降格させても、彼女が産んだ息子の世子の資格はそのままにせよ、と言っているのだ。この世子が後に粛宗のあとを継いで20代王の景宗(キョンジョン)となった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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