現在の中国東北部は、かつて満州と呼ばれていた。古くからこの地域に定住していた民族が「女真」であり、古代から様々な国家を作ってきた。そういう歴史の中で、16世紀末に挙兵して女真の諸族をまとめあげたのがヌルハチである。姓は愛新覚羅(あいしんかくら)。彼は、1616年にいわゆる後金を建国した。
明を破った後金
すでに満州には12世紀から13世紀にかけて女真が作った「金」という国があったので、ヌルハチが建国した国は「後金」と称された。
脅威を感じたのが、国力が衰えていた明(みん)だった。1619年、明はヌルハチを討伐するために大軍を向けるが、大敗を喫してしまった。それほどに後金の武力はまさっていた。
当時、朝鮮王朝は15代王・光海君(クァンヘグン)の統治時代だった。
光海君は、宗主国とも言える明から盛んに援軍要請を受けたが、後金の存在を恐れ、中立外交に徹した。結果的に、これが朝鮮王朝の安泰につながった。そういう意味では、朝鮮王朝の外交はここまでは成果を発揮していた。
1623年に光海君はクーデターによって王宮を追われ、代わって16代王・仁祖(インジョ)が即位した。
彼は後金を蛮族と蔑(さげす)み、明に肩入れする政策を取った。
怒った後金は1627年に攻め込んできて、朝鮮王朝は窮地に立たされた。やむをえず、朝廷を都の漢陽(ハニャン)から江華島(カンファド)に移さなければならない事態になってしまった。
歴史的には「丁卯胡乱(チョンミョホラン)」と呼ばれる。
このとき、朝鮮王朝は「後金と兄弟の関係を保つ」という条件で、なんとか和睦に持ち込むことができた。
しかし、仁祖は約束を守らなかった。
光海君と比べて、外交政策があまりに稚拙だった。
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