張禧嬪は何をしたのか
仁顕王后を廃妃にした粛宗は、張禧嬪を王妃に昇格させた。彼女が王妃になったことで息子も世子(セジャ)となる。こうして頂点に上り詰めた張禧嬪だが、その幸せな時間は長く続かなかった。粛宗の張禧嬪に対する愛は、次第に冷めていったのである。その彼が次に寵愛したのは、ドラマ『トンイ』の主人公となった淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏だ。
彼女は仁顕王后をとても慕っていて、粛宗に仁顕王后を王妃に戻すように頼む。粛宗は、1694年に高官たちに仁顕王后を王妃に戻すことを伝えたが、高官たちから大反対を受ける。粛宗はそれを無視して仁顕王后を王妃に戻し、張禧嬪は側室に降格させた。
しかし、張禧嬪にはまだ息子が世子になっているという強みがあった。彼女は、「息子が王になれば私はまた王妃になれる」と思っていて、そのときを待っていた彼女に衝撃が走るできごとが起こる。淑嬪・崔氏が粛宗の息子を産んだのである。さらに、再び王妃となった仁顕王后も、まだ子供を産む可能性があった。
自分の息子が王になれなくなることを危惧した張禧嬪は、自分の部屋の近くに神堂を建てて、仁顕王后に呪いをかける儀式を行なった。それが原因かどうかはわからないが、1701年に仁顕王后は亡くなってしまう。
粛宗は、愛する妻の死をとても悲しんだ。その翌月、淑嬪・崔氏は張禧嬪が仁顕王后に呪いをかけていたことを告発した。調べてみると、仁顕王后が住んでいた昌慶宮(チャンギョングン)の通明殿(トンミョンジョン)から、呪いの人形や小動物の死骸が出てきた。それを知って激怒した粛宗は、張禧嬪に死罪を言い渡す。
高官たちからは「世子の母親を死罪にしてはなりません」と反対されたが、粛宗は、張禧嬪を絶対に許さなかった。
自ら毒を飲む羽目になった張禧嬪は、「息子に一目会いたい」と願った。粛宗はその願いを聞き入れて、息子に会うことを許した。このとき、誰もが感動的な親子の対面を予想していただろう。しかし、何を思ったのか張禧嬪はいきなり息子の下腹部を思いきり握り出し、それによって息子は失神してしまう。感動的な親子の対面とは程遠いかなり衝撃的なできごとだった。
1720年に粛宗は世を去るが、朝鮮王朝27人の王の中で、女性に関する問題をこれだけ多く起こしたのは、粛宗以外にはいない。
文=康 大地(コウ ダイチ)
張禧嬪(チャン・ヒビン)が粛宗(スクチョン)の心を奪った日々!
張禧嬪(チャン・ヒビン)が粛宗(スクチョン)の息子を産んで起こった騒動とは?