派閥の力学で決まってしまった
当時の朝鮮王朝は、政府高官の間で派閥争いが熾烈だった。
しかも、黄允吉と金誠一がそれぞれ所属していた派閥は対立していて、仲が険悪だった。さらに言うと、金誠一がいた派閥のほうが主流派だったのである。
最終的には、派閥の力学が影響した。政治的に主流派に属していた副使の金誠一の意見が通ってしまったのである。
なんとも、驚くべき失態である。
結局、攻めてこないという金誠一の言葉を信じた朝鮮王朝は、国防の強化に乗り出さなかった。
朝鮮王朝は建国から200年を迎え、太平の世を謳歌していた。ぬるま湯にひたるような政治的体質が、おろそかな国防体制を招いてしまったのだ。
海の向こうで秀吉は、朝鮮出兵の準備を着々と進めた。
九州北部の唐津に名護屋城を建設。そこを拠点にして、1592年4月から朝鮮半島に攻め入った。
都の漢陽(ハニャン)が陥落したのは、攻められてわずか20日くらいであった。
その前に国王は北に向かって逃亡している。
そんな歴史の出来事を、李舜臣の像を見ていて思い出した。
文=康 熙奉〔カン・ヒボン〕
構成=「歴史カン・ヒボン」編集部