14代王の宣祖(ソンジョ)には14人もの息子がいた。しかし、正室は長く病床にあったので、息子はすべて側室から生まれた庶子であった。その中で、長男の臨海君(イメグン)と二男の光海君(クァンヘグン)が世継ぎ候補になっていた。その後継者争いは、どんな展開になったのか。
待望の嫡男
後継者争いで臨海君は分が悪かった。素行が悪く王の資質に欠けると見られていたからである。
しかも、豊臣軍による朝鮮出兵のときに捕虜になってしまい、解放されたあとは、その屈辱から酒びたりとなって何かと問題を起こしていた。
一方の光海君は、豊臣軍との戦いで王朝軍の一部を率いて活躍した。宣祖は光海君を世継ぎとして指名するつもりだった。
当時は中国の明(みん)に世継ぎが決まったことを報告し、その許可を得る必要があった。宣祖も1594年に明に使節を派遣したのだが、「長男を指名しない根拠が明確でない」という理由で、明は許可を出さなかった。
当時は豊臣軍との戦いで明も多くの援軍を派遣してきており、朝鮮王朝に対して強い態度を見せていた。
結果的に、世継ぎ問題は宙ぶらりんとなった。
1606年になると、さらに混迷した。
宣祖が二番目の正室として迎えた仁穆(インモク)王后が永昌(ヨンチャン)大君を産んだのだ。宣祖にしてみれば待望の嫡男だ。
宣祖は嫡男の誕生を大いに喜んだが、2年後に死期が迫ってしまった。
永昌大君はまだ2歳だった。
言葉も満足で話せないようでは、国王になるのは無理だ。宣祖としても光海君を世継ぎに指名せざるをえなかった。
1608年、光海君は15代王として即位した。彼を支持する一派は、王位の安泰のために血の粛清に乗り出した。臨海君を配流したうえで自決させ、永昌大君も殺して母の仁穆王后を幽閉した。
こうして光海君の王位は磐石になったと思われたが、結果は逆だった。血の粛清の過程で光海君は多くの政敵をつくることになってしまった。
しかし、政治家としての光海君は、戦乱で荒廃した国土の復興に尽くし、外交を巧みに行ない、民生の安定に力を注いだ。
ただ、光海君の臣下たちは宮中でやりたい放題に振る舞い始め、収賄も平然と行われた。政治の腐敗によって辛い思いを強いられたのは庶民であり、彼らの恨みは光海君に向けられていった。
こうなると、兄弟たちを殺害した悪行が蒸し返され、光海君を王から引きずりおろそうとする動きが活発になった。
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