16代王・仁祖(インジョ)は、クーデターを起こして先王の光海君(クァンヘグン)を追放して1623年に即位するが、彼には多くの困難が待ち受けていた。特につらかったのが、異民族の侵攻を度々受けたことだった。特に強大な軍事力をもった清は、1636年に怒濤のように攻めてきて、朝鮮王朝も屈伏せざるをえなかった。
好対照の兄弟
仁祖は清の皇帝の前でひざまずいて謝罪した。それは、朝鮮王朝の王がもっとも屈辱を受けた瞬間だった。
しかも、謝罪だけですまなかった。
仁祖の息子たちは人質として清に連行されてしまった。
その息子とは、昭顕(ソヒョン)、鳳林(ポンニム)、麟坪(インピョン)の3人だった。特に、昭顕は次の王を担う世子(セジャ)であった。
幼かった麟坪は翌年に故国に戻ってこられたが、昭顕と鳳林は長く連行されたままだった。
2人は捕虜として扱われながらも、まったく別の生活を送っていた。長男の昭顕は当時の清に伝わっていた西洋の文物に心を震わせた。そして、西洋人と積極的に交流し、新しい思想や技術を学び、西洋文化に心酔していった。
二男の鳳林は次の王になる昭顕を守るため、清で常に目を光らせていた。その間、彼も西洋文化に触れる機会があったが、敗戦国の王子と馬鹿にする周囲の冷たい視線を感じていたため、清への反感が強かった。(ページ2に続く)
仁祖(インジョ)はなぜ昭顕(ソヒョン)世子の一家を滅ぼしたのか