<古代から近代までの朝鮮半島の歴史年表>

 

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前2333年 檀君(タングン)が建国。古朝鮮が始まる。ただし、考古学的に立証されていない。
前194年 衛満(ウィマン)朝鮮が成立。
前108年 衛満朝鮮が崩壊。これによって古朝鮮の時代が終わる。
前57年  新羅(シルラ)が建国(成立当時は神話的な要素が強い)。
前37年  朱蒙(チュモン)が高句麗(コグリョ)を建国(朱蒙の出自は伝説に彩られている)。
前18年  百済が建国(初代王の温祚王〔オンジョワン〕は朱蒙の息子と言われるが、確証は得られていない。
313年  高句麗が楽浪郡を滅ぼす。
346年  百済で13代王の近肖古王(クンチョゴワン)が即位。百済が領土を広げる。
391年  高句麗において19代王の広開土大王(クァンゲトデワン)が即位。強力な騎馬軍団と優れた製鉄技術で広大な領土を築く。
427年  高句麗が平壌(ピョンヤン)に遷都。
540年  新羅を強国に押し上げた立役者、24代王の真興王(チヌンワン)が即位。
601年  7世紀に入って高句麗、百済、新羅の三国による領土争いが激化。
612年  高句麗の名将、乙支文徳(ウルチムンドク)が隋の大軍を撃破し、歴史的な大勝利をあげる。
632年  新羅で27代王の善徳(ソンドク)女王が即位。
660年  新羅・唐の連合軍が百済を攻撃。三国で最初に百済が滅亡。
668年  高句麗で後継者問題から内紛が起き、新羅・唐の連合軍に滅ぼされる。
676年  新羅が唐の勢力を朝鮮半島から追い出し、初の統一王朝を築く。
698年  大祚栄(テジョヨン)が渤海(パレ)を建国。
828年  張保皐(チャンボゴ)が、海賊征伐の拠点となる清海鎮(チョンヘジン)を設置。
900年  百済の後継国を自称する後百済(フペクチェ)が建国。
901年  後高句麗(フコグリョ)が建国されて後三国時代となる。
918年  王建(ワンゴン)が高麗(コリョ)を建国する。
926年  渤海が滅亡する。
935年  新羅が56代王の敬順王(キョンスンワン)を最後に高麗に帰順。
936年  後百済が滅びて高麗が朝鮮半島を統一。
958年  朝鮮半島で初めて科挙の制度が導入される。
1170年 高麗で武人たちが文官を追い出して武人政権を樹立。
1196年 崔忠献(チェチュンホン)が政権を掌握。
1231年 蒙古の勢力が高麗に侵攻。以後、国内が混乱する。
1258年 崔氏一族が支配する政権が終了。
1259年 高麗が蒙古に屈伏。朝鮮半島はしばらく蒙古の支配下に入る。
1274年 元寇が起こる。高麗軍も元の指示で出兵させられる。
1388年 高麗の武将だった李成桂(イソンゲ)が政権を掌握する。
1392年 李成桂が高麗王朝を滅ぼして新しい王朝を創設。彼は、初代王・太祖(テジョ)となる。
1393年 国号を「朝鮮(チョソン)」に決定。この「朝鮮」は紀元前に脈々と続いた国名であり、由緒ある名を受け継ぐ形となる。
1394年 高麗王朝の都は「開城(ケソン)」であったが、朝鮮王朝は新たに漢陽(ハニャン)に遷都。漢城(ハンソン)とも呼ばれたこの都市は現在のソウルである。
1395年 正宮となる景福宮(キョンボックン)の建設が始まる。
1398年 太祖の息子たちによる骨肉の争いが激化。歴史的に「第1次王子の乱」と呼ばれる。その結果、太祖は退位して次男の芳果(バングァ)が2代王・定宗(チョンジョン)として即位したが、権力を掌握していたのは、五男の芳遠(バンウォン)だった。
1400年 太祖の四男・芳幹(バンガン)が王位を狙って挙兵。芳遠と対立するがすぐに鎮圧されて芳幹は流罪となる。これを「第2次王子の乱」と言う。芳遠は王位継承をこれ以上混乱させないために、3代王・太宗(テジョン)として即位する。
1408年 隠居していた太祖が73歳で息を引き取る。
1418年 太宗が王位を三男に譲る。4代王・世宗(セジョン)の誕生である。だが、太宗は上王として軍事を掌握し、相変わらず最高実力者だった。
1422年 太宗が死去。名実ともに世宗時代が始まる。
1443年 世宗の主導によって民族固有の文字である訓民正音(フンミンジョンウム)が完成する。訓民正音は後の「ハングル」である。
1446年 訓民正音が正式に公布される。しかし、特権階級による漢字偏重政策が続いて、訓民正音は世宗がめざしたほどには普及しなかった(真の意味で国語になったのは20世紀に入ってからである)。
1453年 世宗の次男だった首陽大君(スヤンデグン)が露骨に王位奪取に野心を見せて、6代王・端宗の後見人だった金宗瑞(キム・ジョンソ)を殺害。クーデターを成功させて政権を掌握する。歴史的には、「癸酉靖難(ケユジョンナン)」と呼ばれている。
1455年 首陽大君が端宗を退位させて7代王・世祖(セジョ)となる。
1456年 世宗を側近として支えた成三問(ソン・サムムン)を中心に、端宗の復位を狙ったクーデターを計画。しかし、失敗してしまい、首謀者たちが処刑される。彼らの忠義の心は後に「死六臣(サユクシン)」として称賛される。
1457年 端宗の復位を狙う動きを警戒した世祖は、甥の端宗を平民に降格させて、さらに死罪に処す。「悲劇の王」はわずか16歳で絶命する。
1460年 朝鮮王朝の法律を集大成するために「経国大典」の編纂が始まる。
1468年 世祖が51歳で世を去る。彼の長男は、19歳のときにすでに亡くなっていたので、次男が8代王・睿宗(イェジョン)となる。
1485年 編纂開始から25年目、ようやく「経国大典」が完成。これによって、あらゆる分野の法制度が確定し、朝鮮王朝は法治国家としての体制を整えた。
1494年 燕山君(ヨンサングン)が10代王となる。
1498年 道義と名分を重んじる士林派の高官たちを燕山君が粛清。「戌牛士禍(ムオサファ)」と呼ばれている(「士禍」というのは、派閥闘争の末に官僚・学者の多くが犠牲になる事件を指している)。
1504年 燕山君の母(尹氏)の死罪に関わった人たちが根こそぎ虐殺される。すでに死去している人は、墓をあばかれて首をはねられる。この出来事は「甲子士禍(カプチャサファ)」と呼ばれている。
1506年 クーデターによって燕山君が王宮から追放される。燕山君の異母弟が11代王・中宗(チュンジョン)として即位する。クーデターは「中宗反正(チュンジョンバンジョン)」と呼ばれている。
1519年 儒教的な賢人政治を主導した趙光祖(チョ)(グァン)(ジョ)が死罪となる。
1544年 中宗が56歳で亡くなり、息子が12代王の仁宗(インジョン)となる。
1545年 仁宗が在位9カ月で死去。継母の文定(ムンジョン)王后(中宗の三番目の正室)が毒殺したと疑われている。
1565年 政治を私物化して朝鮮王朝を混乱させた文定王后が世を去る。
1570年 儒教の大学者の李滉(イファン)が死去。李退渓(イ・テゲ)という号でも知られる。現在、韓国の千ウォン紙幣の肖像画になっている。
1575年 朝鮮王朝の政治を動かしていた高官の間で激しい意見対立があり、東人派と西人派に分裂。以後、朝鮮王朝は激しい「党争」の時代に突入する。
1592年 4月13日、豊臣軍が釜山(プサン)に上陸。壬辰倭乱(イムジンウェラン/日本でいえば文禄の役)が始まる。5月2日には都の漢陽が陥落する。宣祖はいちはやく北に向かって逃亡し、王としての責務を放棄。苦境に陥った朝鮮王朝だが、水軍を率いた李舜臣(イ・スンシン)の大活躍で挽回する。
1598年 豊臣秀吉の死をもって壬辰倭乱が終結。最後の海戦で李舜臣は流れ弾が当たって戦死する。
1607年 朝鮮王朝と江戸幕府の間で外交関係が築かれ、最初の朝鮮通信使が日本を訪れる。以後、江戸時代に朝鮮通信使は12回来日している。
1608年 15代王・光海君(クァンヘグン)が即位。
1610年 許浚(ホ・ジュン)が不朽の医学書「東医宝鑑」を完成させる。
1614年 光海君の異母弟だった永昌大君(ヨンチャンデグン)が政権側の刺客によって殺害される。これによって、光海君は多くの怨みを買う。
1623年 クーデターによって光海君が王宮を追放される。クーデターを主導した宣祖の孫が16代王・仁祖(インジョ)として即位する。歴史的には、「仁祖反正(インジョバンジョン)」と呼ばれている。
1627年 北方で勢力を伸ばした後金が3万人の兵力で朝鮮王朝に侵攻。最後は和睦が成立する。この出来事は「丁卯胡乱(チョンミョホラン)」と呼ばれる。
1636年 後金が国名を清に変え、10万人を超える大軍で再び朝鮮王朝を襲う。圧倒的な軍事力に対抗できず、仁祖は都の南にあった山城に籠城する。この出来事は「丙子胡乱(ピョンジャホラン)」と呼ばれる。
1637年 ついに朝鮮王朝は清に屈伏。仁祖は清の皇帝の前でひざまずいて謝罪。長男の昭顕(ソヒョン)を初めとする仁祖の息子たちが清の人質となる。
1645年 長い人質生活を終えて昭顕が故国に戻ってきたが、外国にかぶれたという理由で仁祖に冷遇される。しかも、昭顕は帰国後わずか2カ月で死去。仁祖に毒殺されたのではないかという噂が絶えなかった。
1674年 19代王・粛宗(スク)(チョン)が即位。商業の活性化など政治的な業績が多かった。
1689年 粛宗が正妻の仁顕(イニョン)王后を廃妃にする。代わって王妃になったのが張禧嬪(チャン・ヒビン)。彼女が産んだ粛宗の息子も世子となる。張禧嬪の栄華は絶頂となったが、それも長くは続かなかった。粛宗は側室の淑嬪(スクビン)・崔(チェ)氏を寵愛するようになり、張禧嬪を遠ざける。
1694年 粛宗が仁顕王后の復位を重臣たちに通告。それは、王妃になっていた張禧嬪の側室への降格を意味していた。
1701年 8月に仁顕王后が病死。その直後、淑嬪・崔氏の訴えにより、張禧嬪が神堂をつくって仁顕王后を呪い殺そうとしていたことが発覚。粛宗は「張禧嬪を死罪にせよ」と厳命。張禧嬪は42歳で毒を飲んで絶命する。
1720年 粛宗が59歳で亡くなり、張禧嬪との間に生まれた32歳の息子が20代王・景宗(キョンジョン)として即位する。
1724年 在位4年2カ月で景宗が世を去り、淑嬪・崔氏が産んだ粛宗の息子が21代王・英祖(ヨンジョ)として即位する。彼は、各派閥から公平に人材を採用する政策で成果を挙げる。
1762年 英祖が素行の悪さを理由に息子の荘献(チャンホン)を厳罰に処す。荘献は米びつに閉じ込められて餓死する。荘献の死後、後悔した英祖は息子に「思悼世子(サドセジャ)」という号を贈る。
1776年 英祖が82歳で亡くなり、荘献の息子が22代王・正祖(チョンジョ)として即位。彼が手始めに行なったのは、父の荘献を陥れた者たちへの厳罰だった。また、正祖は政治改革に意欲を見せ、身分の垣根を越えて学問に秀でた人材を抜擢。政治、経済、文化の各分野で多くの成果を達成している。
1794年 亡き父を心から追慕する正祖は、父の陵墓がある水原で大規模な城郭の建設を始め、2年6カ月に周囲6キロのりっぱな城郭を完成させた。それが今は華城(ファソン)と呼ばれ、世界文化遺産に登録されている。
1800年 正祖が48歳で亡くなる。10歳の息子が23代王・純祖(スンジョ)として即位する。
1805年 純祖の正室だった純元(スヌォン)王后の実家である安東(アンドン)・金(キム)氏の一族が政治を独占する。王の外戚が政治を牛耳ることを勢道(セド)政治と言う。
1811年 12月に政治腐敗に反抗して洪景来(ホン・ギョルレ)が挙兵する。一時は朝鮮半島北部の広い地域を占拠する。
1812年 洪景来が率いた蜂起軍は王朝軍の追撃を受けて弱体化。4月に王朝軍によって制圧され、洪景来も戦死する。
1834年 妻の外戚に政治を私物化されてしまった純祖が失意の中で世を去る。彼の孫が24代王・憲宗(ホンジョン)となる。7歳だったので、祖母の純元王后が摂政を行なう。
1849年 憲宗が22歳で急死し、田舎で農業をしていた無学の青年が25代王・哲宗(チョルジョン)として即位。それは、一族の影響力を残すために純元王后が画策した仰天人事だった。
1857年 純元王后が68歳で息を引き取る。純祖に嫁いでから55年、王の後継問題を主導するなど朝鮮王朝の政治を思いのままに操った。
1863年 哲宗が自堕落な生活の末に死去。後継の王は高宗(コジョン)。まだ11歳だったが、彼の父であった興宣大院君(フンソンデウォングン)が有能で、安東・金氏の一族を政権の要職から追放することに成功。約60年間も続いた勢道政治が終わる。
1865年 興宣大院君は景福宮の再建に乗り出す。莫大な費用がかかったため、庶民は増税となって負担が増えた。
1866年 興宣大院君が鎖国政策に固執し、カトリック教徒を弾圧。フランスの神父9人が殉教する事件が起きる。フランス政府は、報復として江華島(カンファド)を一時的に占拠する。
1871年 アメリカが江華島に侵入。欧米各国の軍事行動が相次ぐ。
1873年 高宗の妻である明成(ミョンソン)王后が政変を起こして興宣大院君を失脚させる。
1875年 日本の軍艦「雲揚号」が江華島の沖で挑発的な行動を取ったことで軍事衝突に発展。日本は朝鮮王朝に開国を迫る。
1876年 日本と朝鮮王朝の間で修好条規(江華条約)が締結された。この条約は、朝鮮王朝と清との宗主関係を否定したうえで、「主要な港の開港」「自由貿易の推進」「日本領事による治外法権」などが織り込まれていた。こうして、朝鮮王朝は開国に踏み切り、以後はアメリカ、フランス、ロシアとも通商条約を結ぶ。ただし、いずれも武力で威嚇された不平等条約だった。
1882年 朝鮮王朝の昔ながらの旧式軍隊の軍人たちが給料遅配や待遇悪化に抗議して反乱を起こし、日本公使館などが襲われる。この反乱は、「壬午(イモ)軍乱」と呼ばれているが、興宣大院君の復帰によって収拾される。しかし、日本と清が朝鮮半島に兵を出し、両国の対立が深まる。
1884年 親日派を中心にした勢力がクーデターを起こして一時は王宮を支配。だが、清の軍隊が介入して「三日天下」に終わる。
1894年 農民が反乱を起こす(甲午農民戦争)。これを契機に、利権を争っていた日本と清が衝突して日清戦争が起こる。日本は勝利して、朝鮮半島から清を追い出す。
1895年 明成王后が日本の勢力によって暗殺される。
1896年 高宗がロシア公使館にたてこもり、親日派の高官たちを処罰。以後、ロシア寄りの政治が行なわれる。
1897年 国号を「大韓帝国」と改め、初代皇帝の座に高宗が就く。それ以前、朝鮮王朝は中国に気兼ねして、自ら皇帝と称することはなく、格が一つ下がる形の「王」を自称していた。しかし、日清戦争において日本が勝利したことで、清は朝鮮半島で影響力を失い、それにともなって朝鮮王朝は独立の証として「帝国」を名乗るようになったのである。
1904年 朝鮮半島における権益をめぐって、日本とロシアが開戦。
1905年 日露戦争に勝利した日本は大韓帝国の外交権を奪い、統監府を設置して内政にも干渉する。
1907年 高宗がオランダのハーグで開催された万国平和会議に、日本の干渉に対する不当性を訴える密使を送る。失敗に終わって、高宗が退位。純宗(スンジョン)が後を継ぐ。
1910年 8月22日に日本と大韓帝国の間で「日韓併合ニ関スル条約」が調印される。統監府に代わって朝鮮総督府が置かれ、朝鮮王朝が滅亡する。

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