日本と清が激しく対立
日朝修好条規を結んだ1876年の時点で、すでに日本と朝鮮半島は国力に差が出ていました。日本は富国強兵政策を進めて、武力を着実に強化していました。
一方の朝鮮王朝は、政治の腐敗や前近代的な制度の固執などで、日本に比べて武力が劣っていました。ときはまさに弱肉強食の時代。日本の朝鮮半島への介入は加速度的に進みました。
朝鮮王朝にも、「明治維新に成功した日本に学ばなければならない」という考えを持った開化派が台頭した時期がありました。彼らは1884年12月に日本の後押しを受けてクーデターを起こし、一時的に王宮を占拠しました。この事件は「甲申(カプシン)事変」と呼ばれています。
しかし、朝鮮半島に大きな影響力を持つ清が黙っていませんでした。清が武力で開化派を排除し、王宮占拠も「三日天下」で終わってしまったのです。
以後、日本と清は朝鮮半島の権益をめぐって激しく対立するようになります。
1894年2月、東洋思想を信奉する多くの農民が政治への怒りを爆発させて全羅道(チョルラド/朝鮮半島西南部)で決起しました。ここに「甲午(カボ)農民戦争」が始まったのです(「東学党の乱」とも呼ばれます)。(ページ3に続く)
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