日本の朝鮮半島への介入において、先兵のように動いたのが軍艦の雲揚号でした。この雲揚号が1875年9月に、朝鮮王朝の国防の拠点とも言える江華島(カンファド)の沖で挑発的な行動を取りました。朝鮮王朝側も応戦し、局地的な軍事衝突が起きました。これが江華島事件です。
不平等な条約
当時の朝鮮王朝は26代王の高宗(コジョン)が統治していました。しかし、この王には自ら政治を仕切る才覚が欠けていて、実質的には父の興宣(フンソン)大院君と妻の閔氏(ミンシ/後の明成〔ミョンソン〕皇后)の間で激しい主導権争いが起こっていました。興宣大院君は攘夷派で閔氏は開国派でした。そして、江華島事件が起こったときは閔氏が実質的に政治の主導権を握っていました。
日本の武力は、朝鮮王朝にとって脅威でした。ゆえに、朝鮮王朝は強く開国を迫る日本の圧力に抗うことができず、1876年2月に両国の間で日朝修好条規(江華条約)が締結されました。
結果的に朝鮮王朝は条約によって「主要な港の開港」「自由貿易の推進」「日本領事による治外法権」などの重要事項を呑まされました。
日本の武力を恐れた朝鮮王朝は、自国に不平等と知りながら条約を結ばざるをえなかったのです。
開国に踏み切った朝鮮王朝は以後、アメリカ、イギリス、ドイツ、ロシア、フランスとも外交関係を築きました。しかし、いずれも武力で威嚇された不平等条約を結んでいました。(ページ2に続く)
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