正室が産んだ初めての王子
光海君は豊臣軍との戦いでも前線で兵の士気を高め、兄よりも高く評価されていた。すると、王朝の内部では臨海君派と光海君派に分かれて権力争いが始まった。
結果的に、宣祖は素行が悪く問題を起こす臨海君を王の資格なしと見なし、光海君を後継者として指名した。
一旦は、宣祖の後継問題は決着したと思われた。しかし、宣祖の二番目の正室となった仁穆(インモク)王后が1606年に永昌大君(ヨンチャンデグン)を産むと状況は一変した。実は、臨海君も光海君も側室との間に生まれた息子であり、正室との子供は永昌大君が初めてだった。
それだけに、宣祖は永昌大君をとても可愛がった。そうなると、権力にどん欲な一部の臣下は、永昌大君を擁護する動きを見せた。
1608年、宣祖が病により急死した。彼は明確な後継者を指名していなかったので、王位継承の決定権を握ったのは仁穆王后だった。永昌大君を支持する一派は自分たちの勝利を確信した。
しかし、意外な展開になった。
なんと、仁穆王后は光海君を指名した。いかに母とはいえ、まだ2歳の幼い子供を王にするのは現実的でなかった。
こうして、33歳の光海君が15代王として即位した。
文=慎 虎俊(シン・ホジュン)
光海君(クァンヘグン)が仁穆(インモク)王后に復讐された日(前編)