女帝の登場
1469年、即位2年目でわずか19歳の睿宗は突然の死を迎えた。以前から体調を崩していたが、その死はあまりに唐突で宮中では再び呪いだと噂された……。
睿宗の息子はまだ5歳にすぎない幼子だった。宮中では、次の権力を握るために周りを出し抜こうという勢力が跋扈(ばっこ)した。
そうした空気の中で、もっとも早く行動を起こしたのが、世祖の妻だった貞憙(チョンヒ)王后だった。
彼女は睿宗の死を心から嘆き悲しんだが、いつまでも泣いているわけにはいかなかった。次の王位を決める決定権を握っていたからだ。
そのとき、候補者は3人いた。
睿宗の息子の斉安(チェアン)。
睿宗の甥(兄の息子)の月山(ウォルサン)と者山(チャサン)。
この3人の中で、斉安はまだ分別がつかないほど幼かったので早くから除外されてしまった。
つまり、月山と者山の2人の中から王を選ばなければならなかった。
それならば、当然長男である月山が王になるはずなのだが、貞憙王后は者山を王として指名した。この決定は睿宗の死の翌日に発表された。彼女は、不満を持っている臣下たちを集めてこう諭した。
「突然の発表に驚かれた方や、私の不忠を責める方もいらっしゃるでしょう。しかし、主上(チュサン/王のこと)の死を嘆く気持ちを私は、この場の誰よりも持っているつもりです。だからこそ、主上が安心して死出の旅路につけるように、早急に新たな王をたてたのです」
自分の醜い欲望を睿宗のためと言い張る彼女に、臣下たちの憎悪の眼差しは一層激しくなる。しかし、彼らには有力者たちを味方につけた彼女を罵ることすら出来なかった。(ページ3に続く)
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