実務的な国王
元来、朝鮮王朝が国教として崇(あが)めた儒教は、商業を低く見る傾向があった。礼に基づいた精神世界を語ることこそが高尚とされ、物質的利潤を求めることは卑下されていた。
しかし、粛宗は民生の安定には商業の発展が欠かせないと考え、そのための制度を整えた。彼が断行した商業政策は、17世紀から18世紀にかけて庶民生活の向上に寄与したといえる。
さらに、粛宗は国防にも力を入れた。
辺境地域に城を築いて軍備を増強した。そういう姿勢が、異民族の侵略を未然に防ぐ働きをしたことは間違いない。粛宗は、歴代27人の王の中でも、強力な統率力をもった指導者の1人であった。
そんな彼でも大いに苦慮したのが「党争」だった。歴史を見れば、朝鮮王朝時代に国王は党争に悩まされたが、粛宗の治世時には高官たちが南人(ナミン)派と西人(ソイン)派に分かれて激しく争った。
お互いに相手をつぶすために手段を選ばず、宮中はおぞましい策略の巣窟(そうくつ)となってしまった。
ただし、粛宗はこの党争を逆に王権の強化に利用しようとした。(ページ3に続く)
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