恋多き粛宗が一番愛した美女
せっかく王妃に復帰した仁顕王后だが、粛宗の子供を身ごもることもなく、病弱で床に伏せることが多かった。その末に、1701年8月に亡くなった。
翌月になると、淑嬪・崔氏の告発によって、張禧嬪が仁顕王后に呪詛(じゅそ)をしていたことが発覚した。粛宗は厳しく張禧嬪を弾劾し、最終的に死罪を命じた。
高官たちはこぞって猛烈に反対した。「世子の生母を死なせるわけにはいきません」という理屈だった。
しかし、どんなに反対が強くとも、粛宗は耳を貸さずに張禧嬪の死罪を強行させた。不可解なのはその後だ。
張禧嬪は王妃を呪詛して殺したという大罪を負って死罪となったのだ。罪人として葬儀が冷遇されてしかるべきなのに、粛宗は張禧嬪を立派に弔っている。きわめつけは、服喪期間が王妃の通例より1日少ないだけだったことだ。これは、格式のある王妃の葬儀とほとんど変わらないことを意味している。
このような特別扱いは、粛宗の心からの哀悼を意味しているのではないだろうか。
その一方で、張禧嬪が絶命した後に粛宗は、淑嬪・崔氏に対して意外と冷たい対応をしている。彼女を王宮から出してしまい、その後も会わなかった。
これは一体、何を意味しているのか。
粛宗が生涯で一番愛した女性は、やはり張禧嬪ではなかったのか。2歳上の絶世の美女に惚れた粛宗は、恋愛の深みにはまって彼女に夢中になった。欲望が強すぎるがゆえに、張禧嬪をうとましく思って心が離れていったのは確かだが、結局は仁顕王后でも淑嬪・崔氏でも張禧嬪ほどには愛すことはできなかった。張禧嬪を失った瞬間に、粛宗はそのことに気づいたのだ。だからこそ、可能な限りの最高の礼を尽くして葬儀を行なったのではないか。
張禧嬪には「朝鮮王朝随一の悪女」という悪評がつきまとっているが、むしろ彼女は「恋多き粛宗が一番愛した美女」と称されたほうがふさわしい。
悪の手先「鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)」!悪女たちの朝鮮王朝1
文=康 熙奉(カン ヒボン)
出典=『歴史を作るのは男より女! 悪女たちの朝鮮王朝』(双葉社発行)
『歴史を作るのは男より女! 悪女たちの朝鮮王朝』(双葉社発行)