名分のない王権
文宗は世宗の後を継いで1450年に王位にあがったが、わずか在位2年3カ月で亡くなり、文宗の長男だった11歳の端宗(タンジョン)が即位した。
首陽大君は多くの策士と屈強な武士をそばに置いて、虎視眈々と機会を狙っていた。そして、1453年に、端宗の後見人で当時随一の実力者だった金宗瑞(キム・ジョンソ)を暗殺して、政敵を一掃した。
一気に実権を握った首陽大君は、政治と軍事のすべてを掌握して、端宗を擁護していた安平大君や他の高官たちを政府内から排除した。そうやって自分の妨げになるような勢力を完全に除去した首陽大君は、真綿で首をしめるように端宗に圧力をかけた。
ついに端宗は1455年に譲位を発表し、首陽大君が朝鮮の国王になった。7代王・世祖(セジョ)の誕生である。
すでに儒教の倫理観が社会に浸透していた当時、世祖の名分のない王権は大きな反発を生んだ。
彼が即位してまもなく起こった反乱は、王としての世祖の正統性が理由となっていた。王位強奪者という評判は、逆に端宗への同情を生んだのである。
特に若い学者たちが世祖を批判的に見ていた。まだ血気盛んで理想を命のように思う若い儒学者たちは、何よりも名分を重んじたのだ。
その結果、端宗復位運動が起こった。それが1456年の死六臣事件である。(ページ3に続く)