名君として名高い4代王・世宗(セジョン)の長男として生まれた文宗(ムンジョン)。世宗が即位して3年後の1421年に7歳で世子として指名された。それから世宗が亡くなるまでの29年間、文宗は世子として過ごしたのだが、世宗統治時代の最後の8年間は文宗が世宗の政治を補佐している。世宗が極度に体調を悪化させたからである。
「早く次の後継者を!」
世宗の政治を補佐していたときに文宗が証明したのが、統治能力の高さである。父に似て学問を好んだ文宗は大変な勉強家であり頭脳明晰だった。
そんな文宗は、幼い頃から世宗が重用した学者たちとも親しく過ごした。さらに、温和で柔軟な性格によって人望も厚かった。しかし、生来の病弱な体質は克服することができなかった。
そのことは父である世宗も理解していた。後を任せる世子が長生きすることは無理だろうと感じた彼は、早い段階から次の後継者を作るように勧めた。
これは文宗が病弱なのを見越して、彼の兄弟たちが自身の権力を強化していたことにも原因があった。
世宗は、文宗の後に、二男・首陽大君(スヤンデグン)と三男・安平大君(アンピョンデグン)による王位継承争いが激化することを危惧していた。
「頼りの世子は病弱で長くないだろう。このまま世孫が生まれなければ王位をめぐって乱れてしまう……」
こう考えた世宗は文宗の結婚を急がせた。(ページ2に続く)