建国当初の混乱
敵対勢力がなくなったのを感じた芳遠は、定宗を引退させて3代王・太宗(テジョン)として即位する。
しかし、父である太祖は五男の太宗を王とは認めなかった。
それどころか、王の証である玉璽(ぎょくじ)を持ったまま朝鮮半島北部の咸興(ハムン)にこもってしまう。
太祖から王と認められたい太宗は、父のもとへ何人もの使者を送るが、全員が殺害されて帰らぬ人となった。このことから、韓国では今でも行ったきり戻ってこない人のことを「咸興差使(ハムンチャサ)」というようになった。
しかし、太祖は自身のわがままのために多くの命を奪ったことを次第に後悔するようになり、自らが信頼していた側近の無学(ムハク)大師の説得を受けて都に戻って太宗に玉璽を渡した。
それ以降は政治にかかわらず隠居して、1408年に世を去った……。
このように、初期の朝鮮王朝は、太祖と太宗の関係がよくなかった。
そうした史実は、『イニョプの道』の中でも細かく描かれている。まさに、『イニョプの道』は朝鮮王朝建国当初の混乱が物語のベースになっているのだ。