多くの人を苦しめた暴政
燕山君が王として即位したのは1494年である。王となった彼は、大きな事件を2つ起こしている。最初は「戊午士禍(ムオサファ)」である。 燕山君は、道義と名分を重んじる士林派の高官たちを目の敵にしており、何かと口うるさかったため、そんな士林派を容赦なく弾劾した。この事件の呼び名の由来は、1498年の戊午の年に起きたからだ(「士禍」とは、官僚や学者たちが犠牲になった事件を指している)。
さらに、王朝の最高学府である成均館(ソンギュンガン)を酒宴場にして酒池肉林を繰り返した。そんな王の様子に庶民が反感を示し始めた。人々は「王は酒と女にしか頭にない最低な王だ」「燕山君は無能の暴君だ」とハングルで書いた紙をいたるところに貼った。それを知った燕山君は、ハングルの使用を禁止した。
王宮が混乱する中、さらに事態が悪化する。出世欲に駆られた者が、燕山君に母親である斉献王后の追放劇を話してしまった。それまで何も知らなかった燕山君は、怒りと悲しみで一晩中泣き続けた。(ページ3に続く)