清での8年間に及ぶ人質生活を終えて、1645年2月に母国に帰ってきた昭顕(ソヒョン)世子。しかし、わずか2カ月で亡くなってしまった。あまりに不可解な急死。毒殺を疑われるのも当然だった。
歴史書も毒殺疑惑を提起
朝鮮王朝の正式な歴史書の「朝鮮王朝実録」。1645年6月27日の項では昭顕世子の遺体について次のように記している。
「世子は帰国してからすぐに病気になり、それから数日で世を去った。からだ全部が黒ずみ、耳・目・口・鼻などの7つの穴から鮮血が流れていた。まるで薬物で中毒になって死んだ人のようだった」
ここまで書かれているので、毒殺を疑われるのも当然だった。
そして、疑惑の張本人と目されたのが医官の李馨益(イ・ヒョンイク)だった。(ページ2に続く)
仁祖(インジョ)はなぜ昭顕(ソヒョン)世子の一家を滅ぼしたのか