主治医は処罰された
先の記述で「王妃」と記されているのは、11代王・中宗(チュンジョン)の二番目の正室だった章敬(チャンギョン)王后である。
彼女は中宗の長男(後の12代王・仁宗〔インジョン〕)を出産した直後に亡くなっている。その際に、チャングムは不手際の責任を問われているのだ。
朝鮮王朝で随一の名医だった許浚(ホ・ジュン)でさえ、14代王・宣祖(ソンジョ)が1608年に世を去ったときに、王の主治医として処罰されている。当時、王や王妃が亡くなると、たとえ主治医にミスがなくとも形のうえで罪人にされたのだ。
当然ながら、チャングムも罪を問われて何らかの処罰を受けた可能性が高い。
そんな彼女が、引き続き王族の診察を担当できたのだろうか。
しかし、「朝鮮王朝実録」によると、その後もチャングムは医女として王族の診察をしていて、しばしば褒美を得ている。(ページ3に続く)