朝鮮王朝人物列伝/第35回
1645年4月23日、昭顕(ソヒョン)は帰国してから2カ月後に高熱を出して倒れてしまう。彼に仕えていた高官たちは、回復することを願って李馨益(イ・ヒョンイク)の鍼治療に望みを託した。しかし、病状は悪化してしまい、昭顕は4月26日に世を去ってしまった。
毒殺の可能性
仁祖(インジョ)は、後継者である長男が亡くなったことに対して悲しむどころか、昭顕の葬儀を冷遇したうえに服喪期間も短くするという常識を無視した行動に出た。
さらに、仁祖は後継者を強引に変えてしまう。昭顕と姜氏(カンシ)には息子がいて、本来なら2人の息子が後継者に指名されるはずだったが、仁祖は二男の凰林(ポンリム)を後継者に指名した。当然、高官たちは反対の声をあげるが、仁祖は凰林を後継者にするという考えは変えなかった。
夫を失った姜氏は、息子を王の後継者から排除されたことで怒りを抑えられなくなる。それから、彼女は夫が亡くなった原因を毒殺だと疑っていた。なぜなら、昭顕の遺体は、毒殺されたように黒ずんでいたからだ。
姜氏が真っ先に疑ったのは、治療した医官の李馨益だ。その疑いが大きくなった理由は、李馨益が趙氏(チョシ)と親しいことだった。
しばらくして、李馨益が昭顕を毒殺したという噂が宮中に広まると、官僚の不正を糾弾する役所の司憲府(サホンブ)と、王に諫言(かんげん/目上の人に過失などを指摘して忠告すること)する役割を担う司諫院(サガヌォン)が、後継者が世を去ったことは李馨益に責任があるとして取り調べようとした。
朝鮮王朝では、王族が亡くなるとその担当医官が鞠問(クンムン/重大な罪の容疑者を厳しく取り調べること)にかけられるという慣例がある。しかし、仁祖は昭顕の死の真相を明らかにすることを許可しなかった。(ページ2に続く)
仁祖(インジョ)はなぜ昭顕(ソヒョン)世子の一家を滅ぼしたのか
光海君(クァンヘグン)を追放した仁祖(インジョ)に大義名分はあるのか?