果たして毒殺だったのか
1645年4月23日、昭顕は高熱を発して重病になった。
すぐに治療が行なわれたが、その甲斐もなく、昭顕は4月26日に世を去った。
最愛の長男の急死に慟哭(どうこく)する仁祖……それが普通の姿だが、このときの仁祖は違った。
昭顕の葬儀を信じられないくらいに簡単に済ませてしまったのだ。
王の正式な後継者である世子が亡くなったのである。本来なら国王に次ぐ格式で葬儀が行なわれなければならないのだが、仁祖は葬儀の格を徹底的に下げてしまった。
それだけではない。
朝鮮王朝の正統的な王位継承権は世子の息子たちに引き継がれていくはずなのに、仁祖は原則を無視して、自分の二男の鳳林を世子に指名しようとした。
高官たちが猛反対した。
「王朝の正統性を覆しては絶対になりませぬ」
そういう意見が相次いだ。
しかし、仁祖は強硬だった。
強引に鳳林を世子にしてしまった。
仁祖が王朝の原則を無視した背景には何があるのか。
実は、仁祖が昭顕を毒殺したという疑いが出ていた。
朝鮮王朝の正式な歴史書である『朝鮮王朝実録』には、「亡くなったときの昭顕の遺体は、まるで毒殺されたかのように黒ずんでいた」という記述がある。これは一体、何を意味しているのか。
(後編に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
提供=「ロコレ」
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