仁祖が受けた屈辱
殺された綾昌君には、綾陽君(ヌンヤングン)という兄がいた。彼は弟を殺した光海君に深い憎しみを抱いて反乱を決意する。
1623年3月13日、綾陽君はついに大規模な反乱を起こした。同志を募り入念な計画を立てた綾陽君の手腕は見事だった。彼は王宮の重要な拠点を次々と押さえたのである。そして、綾陽君はクーデターに大義名分を持たせるために、幽閉されている仁穆王后を解放した。
こうして、綾陽君は仁穆王后の許しを受けて16代王・仁祖として即位となった。
卓越した戦略性と優れた統率力によって、クーデターを成功させた仁祖の治世に多くの人が期待をもった。しかし、彼の治世は困難の連続だった。
なんと、即位してすぐにクーデターの功臣・李适(イ・グァル)が反乱を起こしたのだ。李适の手際も見事で、一時は首都を占領までされた。仁祖はなんとか李适の反乱を鎮静することができたが、この動乱の結果、外敵に対する備えがおろそかになってしまった。
1627年、北方の異民族である後金は、仁祖が見せた隙を見逃さず朝鮮王朝に侵攻した。当時の朝鮮王朝は、中国大陸の大国・明を崇める一方で、他の異民族を「辺境の蛮族」と見下していた。これが、後金の怒りを買ってしまい、侵攻は一層激しくなるばかりだった。
1636年12月、後金は国名を清に変えて朝鮮半島に大軍で攻めてきた。朝鮮王朝側は、清の圧倒的な軍事力の前に降伏するしかなかった。
降伏を認めた清が仁祖に求めたのは、彼自身が直接、清の皇帝の前で膝を折って謝罪すること。こうして、仁祖は漢江(ハンガン)の川沿いにある三田渡(サンチョンド)で、3回ひざまずいて9回頭を地面にこすりつけるという屈辱的な謝罪をさせられる。
この一件は朝鮮王朝最大の屈辱として、「三田渡の屈辱」と呼ばれた。
さらに、清は仁祖の3人の息子を人質として清に連れ帰ってしまった。息子3人と別れるとき、仁祖は慟哭(どうこく)して涙を流し続けたという……。(ページ3に続く)
仁祖(インジョ)はなぜ昭顕(ソヒョン)世子の一家を滅ぼしたのか