思悼世子(サドセジャ)!米びつで餓死した王子

 

朝鮮王朝人物列伝/第4回

朝鮮王朝21代王・英祖(ヨンジョ)の息子として生まれた荘献(チャンホン)。彼は世子(セジャ=王の後継者)の立場でありながら、父親の英祖によって餓死させられてしまう。悲劇的な最期を迎える世子の謎に迫る。

思悼世子を題材にした映画『思悼』のポスター。日本でも9月頃に『王の運命』として公開予定

思悼世子を題材にした映画『思悼』のポスター。日本でも『王の運命-歴史を変えた八日間-』として公開された




2大政党による終わることなき党争

19代王・粛宗(スクチョン)は正室から男子が産まれなかったため、側室だった張禧嬪(チャン・ヒビン)から産まれた子を次の王に指名した。しかし、張禧嬪は後に罪を犯して死罪となってしまう。こうなると、臣下の中から張禧嬪の子を王にすることに反対する者が多く出た。彼らが次の王に擁立したのが、別の側室である淑嬪崔氏(スクビン・チェシ)から生まれた子だった。
こうして、宮中では張禧嬪の子を王に推薦する少論派(ソロンパ)と、淑嬪崔氏の子を擁立する老論派(ノロンパ)にわかれて真っ向から対立する。
それは、粛宗が亡くなり、張禧嬪の子が20代王・景宗(キョンジョン)として即位しても変わらなかった。
そんな状況が一変したのが1724年である。なんと、景宗が在位4年で亡くなり、淑嬪崔氏の子が21代王・英祖として即位したのだ。




宮中では少論派が権力を牛耳ると思われたが、英祖は両派閥から平等に人材を登用する政策を前面に押し出した。しかし、両派閥の溝は想像以上に深く、その影響は英祖と彼の息子の運命を狂わせる……。
党派争いを終わらせた名君・英祖にも悩みがあった。多くの王が頭を痛めてきた後継者問題である。
英祖には正室がいたのだが、彼女は子供を産むことができず、1719年に側室から生まれた念願の男子・孝章(ヒョジャン)も、わずか9歳で亡くなってしまった。
ようやく二男が生まれたのは1735年だった。側室の映嬪李氏(ヨンビン・イシ)が念願の息子・荘献(チャンホン)を産んだのである。1歳で世子に指名された彼は、学問に励んだ。さらに、詩作や書道で才能を発揮するなど、幼いころから聡明であり、9歳になると老論派の重鎮である洪鳳漢(ホン・ボンハン)の娘を妻として迎えた。
しかし、荘献には自分の才能におぼれすぎるところがあった。




さらに、老論派重鎮の娘と結婚していながら、少論派を支持していたのも問題だった。荘献は政権内部で警戒されるようになったのだ。さらに14歳のころには英祖から政治の一部を任されるが、老論派の重臣たちは、荘献の悪評を英祖に伝えて邪魔をしたのである。
そういった悪い噂を聞くたびに、英祖は荘献を呼び出して叱責するが、それが原因で親子関係に亀裂が入ってしまう。しかし、荘献もまったく反省をしていないわけではない。自分の立場を自覚した荘献は、反省文を書いて承政院(スンジョンウォン/王命の出納を担当する役所)に出した。
その反省文には、今まで自分が至らなかったと後悔していることや、自らを戒めて過ちを正していくことが書かれていた。英祖は荘献の改心をとても喜んだ。誰もが父子の関係は回復したように思った……。
(ページ2に続く)

英祖(ヨンジョ)の生涯1/なぜ思悼世子(サドセジャ)を餓死させたのか

英祖(ヨンジョ)の人生がよくわかるエピソード集!

朝鮮王朝おもしろ人物列伝(21代王・英祖編)

英祖(ヨンジョ)の正体!朝鮮王朝を52年間も守った王

「イ・ソン」こと思悼世子(サドセジャ)の悲しい最期!

思悼世子(サドセジャ)が餓死した後で妻の恵慶宮(ヘギョングン)はどうなった?

固定ページ:

1

2

関連記事

ピックアップ記事

必読!「悪女たちの朝鮮王朝」

本サイトには、「悪女」というジャンルの中に「悪女たちの朝鮮王朝」というコーナーがあります。ここでは、朝鮮王朝の歴史の中で政治的に暗躍した女性たちを取り上げています。
朝鮮王朝は儒教を国教にしていた関係で、社会的に男尊女卑の風潮が強かったのです。身分的には苦しい境遇に置かれた女性たちですが、その中から、自らの才覚で成り上がっていった人もいます。彼女たちは、肩書社会に生きる男性を尻目に奔放に生きていきましたが、根っからの悪女もいれば、悪女に仕向けられた女性もいました。
「悪女たちの朝鮮王朝」のコーナーでは、そんな彼女たちの物語を展開しています。

もっと韓国時代劇が面白くなる!

韓国時代劇によく登場する人物といえば、朝鮮王朝の国王であった中宗、光海君、仁祖、粛宗、英祖、正祖を中心にして、王妃、側室、王子、王女、女官などです。本サイトでは、ドラマに登場する人物をよく取り上げています。

ページ上部へ戻る