3世紀の中頃には中央集権的な国家の基盤をしっかり整備し、4世紀後半には朝鮮半島の南岸にまで領土を広げることに成功した。こうして百済は、高句麗、新羅と覇を競う三国時代の一角を担うようになった。
豪華絢爛たる王朝文化
当時の百済にとって悩みの種は、南下を狙う高句麗の存在だった。両国は漢江の流域で激しい戦闘を続け、お互いの王までも戦死するという悲劇を繰り返していた。
そうした戦いの様子はペ・ヨンジュン主演の『太王四神記』でもひんぱんに描かれていた。
漢江流域に都があると戦乱に巻き込まれるのは明白であり、百済としても、より安全な土地に遷都する必要性を痛切に考えるようになった。
そこで、百済は475年、都を熊津(ウンジン/現在の公州〔コンジュ〕)に移した。
501年には第25代目の武寧王(ムニョンワン)が即位し、その治世は523年まで続いた。
この頃が百済の黄金期で、当時は中国大陸の影響を強く受け、豪華絢爛たる文物に彩られた王朝文化を花開かせた。(ページ2に続く)