秀吉が後継者の座を射止めた
信長の家臣としての格からいえば、勝家のほうが秀吉より上。だが、明智光秀を倒して秀吉も勢いを得ていた。
しかも、弔い合戦に勝利した点で有利だった。
ただし、秀吉はこの「清洲会議」では、病気と称して議論に加わらなかった。それでも、丹羽長秀が秀吉の主張に同調して、信長の後継者は三法師に決まった。
とはいえ、このときに三法師はわずか3歳。実質的には、後見人となった秀吉が後継者の座を射止めたことが明らかだった。
同時に、遺領の分配においても、秀吉は思うがままになった。
納得できないのが勝家である。
ついに秀吉を討つ覚悟を決めた。
両者の対決が不可避となった。小競り合いのような戦いを経て、1583年4月16日に本格的な軍事衝突になった。(ページ3に続く)