16代王・仁祖(インジョ)は王になる前、光海君(クァンヘグン)を追放してクーデターを成功させるなど卓越した戦略性と優れた統率力を見せた。しかし、1623年に即位した後は、凡庸さばかりが目立つようになった。
1624年、功臣の李适(イ・グァル)が反乱を起こしたが、彼のことを信頼していた仁祖は、裏切り行為をいっさい信じなかった。しかし、李适が実際に都に向かって進軍すると、仁祖は慌てて逃げ出した。
1627年には、国防をおろそかにしていたことで、北方の異民族である後金の侵攻を許してしまう。仁祖は江華島(カンファド)に避難するが、武力で勝ち目がないことを知ると、後金の怒りを鎮めるために講和会議を行なった。朝鮮王朝は中国の明を崇めていたが、その講和会議で後金を支持することと、明に肩入れしないことを約束させられた。
仁祖はその約束を守らなかった。相変わらず明の意向に沿った行動を取っていることに怒った後金は、1636年に国号を清に変えて大軍で再び朝鮮半島に侵攻した。
仁祖は前回同様に江華島に避難しようとしたが、すでに途中の道は押さえられていて、漢江(ハンガン)の南側にある南漢山城(ナマンサンソン)に1万3千人の兵と籠城した。
結果として、清の軍勢によって繰り返された略奪と放火の影響で、国家は存亡の危機を迎えた。それにより仁祖は降伏し、三田渡(サムジョンド/現在のソウル近郊)で清の皇帝に謝罪をしている。その方法は、3回ひざまずいて9回頭を地面にこすり付けるもので、きわめて屈辱的なものだった。
このように、仁祖は朝鮮王朝の歴史の中で間違いなく「恥ずべき国王」であった。
構成=「歴史カン・ヒボン」編集部
光海君(クァンヘグン)の妻の柳氏(ユシ)は不名誉な廃妃(ペビ)となった!