1775年11月30日、英祖(ヨンジョ)は重臣たちと世孫(セソン/王の後継者となる孫のことで後の正祖〔チョンジョ〕)を集めて「重臣たちを信じることができない。余はすべてのことを世孫にまかせたい」と宣言しました。
世孫を立派に育てた
英祖に対して、洪麟漢(ホン・イナン)が強硬に反対します。彼は左議政(チャウィジョン/今で言えば副総理)でした。
「たとえ謀叛を疑われて惨殺されたとしても、受け入れることはできません」
こう断言した洪麟漢は、英祖の王命を文書に記す行為すら邪魔しようとしました。まさに、王に対する反逆です。
ここまで洪麟漢が抵抗したのは、世孫の摂政が自分の「政治的な死」を意味したからでしょう。洪麟漢も必死だったのです。
このとき、世孫は意外な行動に出ます。摂政の件を辞退するのです。彼にすれば、王と重臣の対立を見過ごすことができず、自分の辞退が最良の解決策だと考えたのでしょう。
しかし、英祖はそれを認めません。軍の介入をちらつかせて、反対する重臣たちを牽制しました。
それは51年に及んでいた英祖の治世の中でも、最も堂々たる王命になりました。こうなると、臣下の者たちもどうしようもありません。さしもの洪麟漢も、自分の非を英祖に詫びるしかありませんでした。
この一連の史実を見ていると、世孫を立派に育てたいという英祖の強い意志を痛感します。
それはドラマ『イ・サン』という作品の本流にあった精神とも合致しています。この作品を見ていて心地よい場面だったのは、苦難を乗り越えて大成しようとする努力が実を結んでいくところです。
それは、史実でも同様でした。
22代王の正祖は朝鮮王朝後期を代表する名君として有名ですが、祖父である英祖の導きがあったからこそ、歴史に名を残すことができたのでしょう。
文=康 熙奉(カン ヒボン)